評論:中森弘樹(2017)『失踪の社会学―親密性と責任をめぐる試論』

 気鋭の若手による意欲作、中森弘樹『失踪の社会学*1を読了した。

 本書は一つ前の記事にも書いた日本社会学会にて、著作の部で受賞した作品である。日本社会学会では論文や著作で受賞した方はその年の学会で受賞記念講演をすることになっており、私は都合上、拝聴することは叶わなかったが、タイトルから非常に惹かれるものがあった。そんな話を同じ大学の同学年の友人としていて、立ち寄った書籍部のコーナーに都合よく置かれていたため、手に取った次第である。

 本書について知らなかった私は、タイトルから「逃れ難い親密な関係性から逃れていく不可解な出来事の、自由と困難について考察するのだろう」と推察して購入した。それほど外れてはいなかったと読了後としては思うが、筆者の考察の密度は予測をはるかに上回るものであり、本書を世代が同じ若手が書いた力作として仰ぎ見るものである。

 

 さて、本書が事例として扱うのは「失踪」である。本書は失踪を「人が家族や集団から消え去り、長期的に連絡が取れずに所在も不明な状態が継続する現象」と定義する。参照されている統計データにある通り、日本では年間に8万件程度の失踪が警察に届け出られ、そのうち大半は発見がなされるが、数千件は見つかることなく、失踪を続けている。この事実自体、恐らく多くの方々にとって驚くべきことであり、したがってこれを現代の隠れた社会問題であると指摘することも可能であるが、中森氏が関心を寄せているのは、失踪の社会問題としての側面ではない。中森氏は失踪という事例から「親密な関係性」からの離脱が、言説としていかにして語られるか、親密な関係にあった者たちにどのような形で理解されるか、失踪者家族の支援はいかにしてなされるか、そして失踪した者たちは何をどのように思考していたのかを捉える。そこから、親密な関係性から逃れることの抵抗感が、いかなる論理によって生じているのかを導き出す。これが本書の目的である。

 本書の章立ては以下の通り。

 

第1章 なぜ私たちは「親密な関係」から離脱しないのか

第2章 失踪の実態はどこまで把握可能か

第3章 失踪の歴史社会学―戦後から現在までの雑誌記事分析

第4章 失踪の家族社会学

第5章 失踪者の家族をいかにして支援すべき―MPSの取り組みから

第6章 失踪者のライフヒストリー

第7章 親密なる者への責任

第8章 現代社会と責任の倫理

第9章 行為としての<失踪>の可能性

 

 まず理論的検討と失踪の実態把握が第一部にて行われる(第一章・二章)。次いで失踪にまるわる言説の分析がなされ、失踪が責任の不履行であるとの認識を引き出していく(第三章)。そこから実際に失踪当事者である、失踪された家族(第4章)、失踪された家族を支援するNPO団体(第5章)、失踪経験者(第6章)のヒアリングが分析され、引き出した知見を一般的知識に還元する目的で、以降の章が理論と事例を往復しつつ書かれている(第7章~終章)。一見して、事例以上に考察が分厚いのが本書の特徴である。それでは本書の要旨に移ろう。

 

1.『失踪の社会学』要旨

 

  本書の概要を手短にまとめるにあたり、まず問いを構成する理論と事実を指摘しておくべきだろう。現代社会とは、人々を強く結びつける伝統や紐帯が弱まり、様々な関係性が個人の選択の結果として成立してくるような時代である。農村に住む親族の強固な紐帯も、会社や家族といった中間集団も流動的になっていくのが、いわゆる後期近代*2再帰的近代*3と呼ばれる現代の特徴である。したがって様々な関係性から人々は自由になるとともに、そうした関係性は絶えず個々の努力によって繋ぎ止められるようなものになってくると考えられる。以上のように、個々の関係性に外在する条件によって紐帯の存否が決められるのではなく、人々の選択と意思に基づいて維持される関係のことを、A.ギデンズは「純粋な関係」と呼んでいる*4

 このように他者との関係性が自由で選択的なものになっていくという理論がある一方で、筆者は人々が決して様々な関係性から完全に自由になっているわけではなく、むしろ近年、親密な関係性から離脱することの困難を、人々が感じているとの事実を統計データから示している。親密な関係であっても、選択的なものになっていくという理論がある一方で、それと矛盾するような意識が広範に認められたということだ。

 

 これはどういうことだろうか。関係性は自由かつ選択的なものになりつつも、親密な関係性からの逃れ難さが強まっているのは、なぜなのか。筆者はそこで次のように問いを立てる。すなわち親密な関係からの離脱を困難にしているものとは何か、である。

 筆者の検討によると、離脱の困難は「リスクがあるから」「愛があるから」「社会的・経済的な条件によって困難だから」といった従来の議論では説明しきれない部分が残るという。親密な関係性からの逃れ難さは、離脱がリスクを生むからでも、そこに否応なしに引き付けられるような愛があるからでも、様々な社会的負担・経済的困難が生じるからでもない。いや、正確にはそうしたことも、もちろん親密な関係性からの離脱の困難を構成するのだが、それだけでは説明がしつくされないということを筆者は主張している。ではその逃れ難さを生むものは何か。この問いに答えることが本書の目標である。

 

 筆者は以上の問いに、タイトルにもあるように「失踪」という、いささか極端な事例を検討することを通して答えようとしている。筆者によると、失踪は極限的な事例であるのだが、親密性からの離脱の困難が考察される際に、失踪という事例が有益な知見をもたらしうるのは、まさにそれが極端な事例であることに起因する。というもの人々が親密な人々との関係性をつつがなく営んでる最中には、それがなぜ維持されているのか、どのように維持されているのか、なぜそこから抜け出すことがないのか、ということは自明性の闇の中に消えているからである。それが意識化されるのは、それが壊れる時―失踪される経験や失踪する経験が生じた時である。

 さらに失踪はその定義からして、人々の単純な理解を拒む側面がある。例えば失踪された人々にとっては、失踪者が何のために失踪したのか分からないことも多いし、仮にその目的が推測可能であるとしても、失踪された人々は失踪者の安否を確認することも、呼びかけを行うこともできない。人が不条理に消えるという経験、あるいは不条理に離脱するという行為において、恐らくその時初めて明らかになる親密な関係性の意味や、離脱の困難性があるはずなのである。筆者の言葉を借りていえば、本書は「失踪当事者の観察の観察」実践というわけだ。

 こうして筆者は失踪を事例として、次の4つのデータを検討する。第一に戦後の失踪や蒸発、家出、行方不明を扱った雑誌記事の言説である。第二に失踪された家族へのヒアリングデータ、第三に失踪された家族を支援するNPO団体の職員へのヒアリングデータである。最後に貴重な失踪経験者へのヒアリングデータを検討する。

 なぜ失踪当事者の検討において事例が家族に限定されるのか、どのようにデータを収集しているのか、データの扱いや分析はどのように行っているのか、筆者の立場はいかなるものかなどは、本書を参照していただきたい。ただ、ここで重要な「事例を家族関係に限る理由」についてのみ簡単に触れておくと、家族がリスク、愛、社会的・経済的条件といった、離脱の困難を構成する従来の議論の要素をすべて含むからであり、筆者の「別の要因がある」という仮説を検証しやすいからである。

 

 ではその「別の要因」となるものは何か。筆者は1950年代から2015年までの失踪にまつわる雑誌記事を検討する中で、大まかに次の二つの知見を引き出している。

 第一に失踪言説はその時代や失踪者の属性に応じて家出、蒸発、行方不明と言葉を変えているが、失踪そのものの言説上の扱われ方もまた、時代ごとに異なるものになっている。1950年代では地方から都市部への家出が、1970年前後では家庭からの妻の「蒸発」が、1990年にはティーンの「プチ家出」が、2010年代には高齢者の所在不明問題が中心的なトピックになっている。これは失踪という出来事が社会や価値規範の変化を受けて変わっていくものであることを示唆しており、このことは筆者が参照している現代社会理論の示す近代・後期近代の議論に対応している。

 地方・都市間の消費や労働環境の格差が都市への羨望、出稼ぎ移動を生み出していく50年代、戦後家族モデルの修正期を象徴するかのような家庭からの妻の離脱が語れらた70年代、親密な関係性さえも選択的なものになったことを示すライトな「プチ家出」の90年代、といった具合に(2010年代の問題である「高齢者所在不明問題」については本書の終盤で説明される)。失踪言説は社会と価値規範の変化を被るものであることが確認される。

 第二に、こちらが本書の問いにとって重要な点であるが、失踪言説には失踪者のリスクを懸念する視点、失踪が社会秩序を乱す逸脱(犯罪)の温床となるという視点のほかに、家族からの離脱、及び離脱した家族成員を探さないということに対する「責任」という視点がつきまとっていた。とりわけ最後の「責任」、というよりも「無責任への非難」―なぜ子供の面倒を見ることなく蒸発してしまうのか、行方不明の高齢親を探さないのは無責任ではないか―が存在していたという事実が重要である。筆者はここから、親密な関係性にはリスクへの対処や愛、社会的・経済的条件による逃れ難さの他に「親密なる者への責任」があるではないかと提起する。すなわち離脱の困難は、親密な関係性において「責任が生じている」ことに起因する可能性がある。

 それについて確認するのが次章以降の失踪当事者へのヒアリングデータ分析である。

 

 まず失踪者の家族に対するヒアリングデータが丁寧に分析される。失踪者の家族という共通性を持つとはいえ、本書で取り上げられる10の事例は様々な相違点を持つ。失踪者の失踪理由について目星がつく場合もあれば、まったく分からない場合もある。失踪者に帰ってきてほしいと強く望むケースもあれば(子供が失踪した場合)、それほど強くは望まないケースもある(夫が借金を抱えており、失踪した場合)。捜索活動を熱心にした/しているケースと、さほど熱心には行っていないケースもあった。また家族の失踪によって、大きな精神的負担を抱えることもあれば、社会的・経済的負担を抱えることもある。

 さて、そうした事例ごとの様々な相違点がありつつ、ここでの重要な知見は次の事実から導かれる。すなわち帰ってきてほしいと強く望む当事者が、手紙を書いたり、誰もいない席に夕食を作って置いたり、無言の電話に失踪者の存在を感じていたりすること、あるいは経済的負担、社会的負担、リスクといった分析枠組みに回収されない「応答不能」=所在も安否も知らせずに失踪したことに対する不満が存在していたことである。そこには共通して、コミュニケーションができるはずの親密な他者と、意思疎通ができないということへの不満、苦しみが滲む。親密な他者が失踪してはならないのは、このことから、親密なる者への「応答」責任を放棄してはならないから(にもかかわらず、責任を放棄し続けているから)であると考えられるのである。失踪された家族へのヒアリングデータからは以上のことが確認できる。

 

 次は失踪者家族を支援するNPO団体の支援者のヒアリング分析がなされているが、ここでは深く立ち入って紹介はしないことにする。というのも、この章は「曖昧な喪失」*5を経験した者を支援する情報提供者の立場・役割についての考察がメインとなっており、これは本書の問いからは若干外れたものだからである。結論だけ述べるならば、支援者は情報提供のみならず、精神的な支えとなるケアの役割を担い、失踪された家族と共に物語を構築する作業に携わっていたことが明らかにされた。失踪という不条理に対して、絶望することや諦めることがないように、専門家として情報提供を行うだけではなく―それは時に残酷な事実、例えば亡くなっている可能性が高いことなどを伝え得ることにもなるのだが、そこには慎重になりつつも、希望を持ち続けられるようなケアの実践がなされていたのである。

 

 事例研究の最後は、失踪経験者のライフヒストリー分析である。ここで主に扱われる三名の失踪者は、それぞれ異なる経歴、異なる失踪状況を経て、家族に発見される・家族のもとに帰っている。共通しているのは、家族との不和が失踪以前からあり、それが引き金となって失踪が実行されているということだ。先に取り上げられる二つの事例はそのようにして突発的に失踪を行う。加えて失踪が長期化するという見通しを持たずに失踪しており、帰るに帰れなくなる、という共通点を持っていた。

 彼らは失踪中、家族とは一切の連絡を断ち切っており、筆者はそれを「応答の拒否」と呼ぶ。ちょうど先に分析された「応答の責任」に対応する分析概念である。すなわち失踪された側も失踪した側も、親密な関係性からの離脱と帰還に際して「応答」をめぐる困難を経験しているということであり、このことが離脱の困難を生み出している可能性がある。

 三つ目の事例は自殺未遂を行ったこと、失踪期間が短いことなど、特異なケースとして位置付けられているが、この事例もまた家族との不和をはらみ、コミュニケーションの断絶と回復を経験している(家族からの失踪は、やはり家族との関係が耐えがたいことに起因するのだろうか。つまり「応答の困難」が失踪以前から家族関係に胚胎していたと理解すべきなのだろう)。つまりコミュニケーションが取れることが関係の回復につながり、その困難が離脱の契機として機能することを、この境界的な事例は示しているのである(後の章で分析されるが、コミュニケーションが取れるから帰れたというよりも、家族から「応答責任」を強く求められることがなくなり、適度な距離間でコミュニケーションが再開されたことが、失踪を終わらせるうえで重要であったようである)
 離脱に際して家族との不和を引き起こし、帰りたくなっても「怒られる」ことを想像して帰りづらくなる。失踪が長期化するのは、応答の断絶が「マズいこと」だと失踪者にも認知されているからである。ここに親密なる者への「応答責任」の存在が端的に現れているといえるだろうか。

 我々は親密な関係にある者から絶えずコミュニケーションを求められている。その求めに応じて、通常は様々な情報や配慮、資源等のやりとりを行っている。言い換えるとそうしたやりとりをする関係を「親密である」というのだろうし、家族には当然そうしたことが求められる。失踪は、この「応答責任」を失踪という行為によって反故にしてしまうのである。さらに応答可能なのか、応答する気があるのかどうかさえも不明な状態で宙づりにする/されてしまう。だからこそ「応答」を求めることが端的に示されたといえよう。我々は親密な他者にリスクヘッジや愛を求めるのみならず、親密であるならば「応答せよ」という命を下し、下されているのだと。

 

 さて、書評としてはすでにかなり長い。以降は駆け足でまとめよう。

 本書では以上のように問いの設定から事例分析までが丁寧になされた後、分析から引き出された知見―親密なる者に対する「応答責任」―の理論的検討、理論的貢献について書かれている。中森氏がこの興味深い事例からどのようなインプリケーションを引き出したのか、その詳細について関心を持たれた方は手に取って読み進めて頂きたいが、ごく簡単に以降の章をまとめておくと、次のように言えると思う。

 人が親密な関係性を断ち切り離脱することには、ある種の困難がつきまとう。本書が明らかにしてきたように、人が離脱を躊躇うのは、そこにリスクや愛、社会的・経済的条件に還元しつくされない「親密なる者への責任」があるからなのだ。

 親密な関係性を築いた時から、そこには「他者への配慮」という倫理的責任が生じている。とりわけ弱い存在に対する責任があるのだ(本書では「傷つきやすさを回避するモデル」として提示されている。2010年代の高齢者所在不明問題において、失踪者よりも失踪者を探さない家族が責められていたのは、失踪した高齢者が「傷つきやすい=弱い」存在であると一般的に想定されているからである。子供を見捨てる親が非難されるのも、同様の文脈においてであろう)。

 失踪当事者の事例は、こうした責任が存在することを示すものであった。

 

 一方、現代社会理論に対する修正可能性も本書は提示している。書評冒頭で参照しておいた後期近代論や再帰的近代化論というのは、伝統的な紐帯からの解放、中間集団の流動化などを指摘し、人々の関係が選択的かつ自由なものになっていくことを指摘する理論であった。あるいは関係性の維持というのは、コミットメントし続ける不断の努力の成果であるとされていた。

 しかし本書の知見はこうしたある種の極端な理論が見落としてきた、関係性をめぐる倫理的問題の存在を明らかにしている。私たちは深く関係することで「応答する責任」を背負い、応答しないことは倫理的に良くないことであると考えるようだ。そこに親密な関係性があるという事実が、応答の倫理を生じさせるのである。私たちは、私たちが普段感じている以上に、不自由な拘束の中で生きているし、そうした不自由な拘束の中で「配慮し、配慮される」形で集合的に行為する「自由」を手にしてもいる。

 以上のように本書は世界的に知られた社会学理論に対する貢献を、特異な事例を追いかけ、先行研究を手際よく整理し、丁寧に考察を展開することを通じて成していると言える。無論、この研究が世界的な理論に対する、日本の事例による修正可能性を検討したものである以上、その貢献範囲については慎重に判断すべきだが、理論との粘り強い格闘を通じて生み出された本書の知見には、単なる事例分析を超える価値があることは言うまでもない。

 

2.コメント

 

 いささか長い要旨になってしまった。一般的な学会誌の要旨であれば目安として、内容の要旨が1000字~1500字程度、評論が1000字程度であろう。本稿ではすでに要旨のみで6000字ほどになっているので、書きすぎである。しかしそのようになってしまったのは、私の要約力不足であるともいえるが、もう一つ理由があるとすれば、本書が「議論をじっくり行う」タイプだったからでもあると思う。

 これはほぼ同世代の若手として学ぶべき点であるのだが、本書は問題背景―先行研究―事例―考察という、一般的な学術論文の体裁を持ちつつ、それぞれの各項目の内部において、常に先行する理論や実証を参照しながら、議論を丁寧に尽くしている。例えば失踪される経験の事例分析は、それ自体がすでにインパクトのある事例なのだが(したがって素朴に事例を紹介し、解説していくだけでも面白くなりそうだが)、中森氏はその事例を分析しうる先行研究として「社会的死」と「曖昧な喪失」という理論を検討することを通じて、失踪事例の分析の必要性をきちんと正当化する。あるいは失踪を直接的に扱った研究は相当数が少ないと予想されるが、同様の事態に別の視点から追求を行った無縁やホームレスの研究等も参照し、検討不足があるかどうかを検討している。そうした理論や先行する実証との格闘は本書の随所に見出され、その都度、議論の不十分さが検証されてから話は次に進むという構成になっているため、同分野の専門家にとっても、不案内な読者にとっても納得しやすい。しかしそれを丁寧に追いかけようとすると、理路が入りくんでくるために要旨は長くなる。そういった検証が些末であれば飛ばしてまとめても良いのだが、重要な部分もあり、本稿の要旨は長くなった。

 つまりそれだけ議論の密度が濃いということであり、この積み上げからは今後自身も研究を書いていきたいと考えている学生は学ぶべきところが多いだろう。私もこの手際からは多くを学ばせていただいた。なるほど自身の議論を力強く展開するためにこそ、先達の議論を積極的に活用していくのであって、よく似た話だからとか、関連しているから「それを並べておく」のではないのだ、と。検証に検証を重ね、自身の研究の必要性をその都度、説得的に示し続けることで、自身の研究の貢献範囲を明らかにしているという点も、実に研究者としては実直な姿勢であると思う。

 

 さて、生産者目線の評価はこのくらいにしておいて、本書の内容についてコメントを考えておきたい。まず本書のインプリケーションはすでに要旨の最後で述べたように、親密な関係性がリスクや愛、社会的・経済的条件によって維持されるばかりではなく、応答責任、倫理的責任ともいうべき「親密なる者への責任」によっても維持されている=離脱しがたいということを示した点にある。この責任は家族においてのみ存在しているわけではなく、親密な他者との間柄一般に生じると中森氏は考える。例えば恋人から連絡が来ていて、それに一切応答しないというのは、たとえそれが可能であるとしても気の進まないことである。突然姿をくらまして自然消滅、というのも同様だ。仮に愛が冷めていたとしても、関係性を断ち切るためには「応答」が必要となるだろう。

 ただしその責任が強く求められるのは、本書で考察されているとおり、「傷つきやすさ」を抱えた親密な他者に応答しない場合であり、立場が対等なときには、その責任は相対的に軽くなるかもしれない。家族という事例で責任が重くなるのは、家族が「傷つきやすい」メンバーを抱えていることが多いからである。普遍的な責任といっても、その強弱は様々であろう。

 

 ところで以上のような本書の知見は、いったい「何のため」のものなのだろうか。親密な者の呼びかけに応えなければならない、という永続的な責任が存在していることは、ある意味でとても当たり前のことのようにも思う。すでに倫理学の中で明らかにされていた応答責任の話を、関係の流動化・選択化の進む現代の親密な関係性に、事例を媒介させながら当てはめ、理論的修正を行ったというだけでは、アクチュアリティを欠くと言われても仕方がないはずである。

 ここで想起すべきなのは、中森氏が失踪された家族の支援団体にアルバイトとして携わりながら、失踪について微妙な立ち位置を持っていたことであろう。支援団体に所属する経験から、失踪者が発見されてほしいと願う側面もある。一方で、中森氏が何度か本文で触れているように、失踪を単純に責める気にもなれないのである。なぜか。

 それは関係が持つ重み、どんなことに対してでさえ応答せよと迫られることの苦痛から逃れる行為として失踪が―事例を通して理解されたからである。本書第6章では失踪の引き金として、家族内の不和があったことが示されている。場合によれば、それでもなお親密なる者の責任として、コミュニケーションを継続し続けなくてはならない。様々な家族があろうが、成員が耐えられないほどの「関係することの負担」が強いられてしまうこともあるはずである。親密な関係であるという理由で、ある種の無限責任のようなものが課されてしまうとして、そこから逃げ出したいと思うことは、理解可能なものである。傷つきやすさを抱えた親密なる者への配慮にも限界がある。DVを受けながら子供へ配慮し続けることは難しいだろう。家庭にお金を入れ続けるだけの生活をしていた夫が失職を契機に失踪してしまったとしたら、それも理解可能である。関係の重さに耐えられないのだ。

 私たちの様々な関係性が自由かつ選択的なものになったとはいえ、私たちは時に過剰な関係性の重みに囚われている。人間が親密な関係にある者同士で配慮しあい、助け合って生きていく以上、この責任から解放されることはないと倫理学は教える。しかし本書の知見は、それが過剰負担になるときに、親密な関係性の外部から助け舟を出せることを重要性を伝えているように思う。

 これは単純に「社会保障」の発想に基づいて考えれば、当然のことである。日本は家族主義的な福祉国家であるとされており、基本的に家族成員の問題は家族内で解決することが求められる。子供の学費は親の負担になり、高齢親の介護も未だの家族内で解決せよとの風潮が強い。失業した際にまず頼るべきとされるのは家族・親族であって、生活保護ではない、など。要するに家族に大きな負担がのしかかっているわけだ。家計経済が不安定化し、関係性が流動的・選択的になっても、それと不釣り合いに重たい関係がある。そうした重みに対する外部からの助け舟が社会保障である。社会保障は「傷つきやすさを回避する」手段を家族外に作り出すものである。だから社会保障の充実は流動化社会に適合的である一方、流動化を加速させる側面もあるはずである。

 これ以上、福祉の話には立ち入らないが、本書の議論はそうした「関係の重さ」について考える契機を提供してくれるものであると言えるだろう(社会福祉の充実した国家では、本書で考察されたような親密な関係性はどのようになっているのだろうか?傷つきやすさを回避する責任が、親密な関係性にある者が求められないという状況は考えられないが、それに近い北欧の事例ではどうか。あるいはアメリカのような自由主義福祉国家ではどうか)

 

 本書は失踪という事例の検討を通して現代社会における人間関係の在り方にダイレクトに迫っている。一般的な価値規範の喪失が身近な関係性における承認を求めさせること、リスクの個人化状況こそが、親密な紐帯の重要性を相対的に増大させる可能性があることなど、議論は尽きない。親密なる者への責任と、リスク、愛、社会的・経済的条件はどのように相互に関係しあうだろうか。応答責任の一部解除が可能であるとすれば、それはどのような対策によってであろうか。

 特異と見なされる事例から全体社会の原理にまで考察を広げる本書は、まこと正統に「社会学」的研究である。力作だ。

 

 かなり長くなってしまったが、本ブログに移行後、初の書評は以上である。

 それではまた。

 

*1:中森弘樹(2017)『失踪の社会学―親密性と責任をめぐる試論』慶應義塾大学出版会.

*2:A.Giddens, 1991, Modernity and Self-Identity: Self and Society in the Late Modern Age, UK: Polity Press.(=2005, 秋吉美都・安藤太郎・筒井淳也訳『モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会』ハーベスト社.)

*3:U,Beck, A.Giddens, S.Lash, 1994, Reflexive Modernization: Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order, UK: Polity Press.(=1997, 松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房.)

*4:A.Giddens, 1992, The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love, Eroticism in Modern Societies, UK: Polity Press.(=1995, 松尾精文・松川昭子訳『親密性の変容―近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』而立書房.)

*5:P.ボスのよる理論。在/不在がはっきりしない喪失経験をいかにして理解し支援するのかを説明する。「曖昧な喪失」を経験した者はその喪失が一時的なものか最終的な者か判断ができず、関係性の再編の見通しを立てることができず、希望を抱きつつも当惑してしまうとされる。